
昭和、平成、令和と気付けば3時代を生きてきました。そしてこれからも生きていくんだろうと。この元号が、恐らくは最後かなと思います。
昭和の前半は、全体主義、中盤は戦後復興、高度成長。後半は、バブルとその崩壊。
平成はバブル後の停滞の時代。衰退の時代。
令和は、恐らく、更なる崩壊の時代。
悲観的に思われるがそういうわけでもないです。大きな潮流はダウンサイジング、抽象化のプロセスで、粉々になる状況を崩壊と感じるだけです。
末法思想の末、マツとは世も末というと終わりを意味しますが、本来的には粉末の末、つまり、粉々になるということです。お釈迦さまは遠い将来を予見できて、この粉々の時代が来ることを見通せたのでしょう。
フジテレビを含むTV局は1対多を前提としたメディアで、YouTube などを含むSNS のメディアスタイルは多対多 発信元が粉々になった姿です。一連の出来事はこの文脈で捉えるとわかりやすくなる側面もあります。
巨人・大鵬・卵焼き の昭和から、国民の興味嗜好は粉々になり、プロ野球放送は地上波では放送されなくなりました。
通貨も発行元が中央政府でしたが、そういった中央政権的なものからデジタルなものに移りつつあります。政府という大きなものが信頼を失い粉々になっていく様子とも見えます。
いろんな分野でその様子が感じられますね。
規模の経済という、大規模にやれば効率的である という経営原則は、粉々の発想からは逆行する概念ですけれども、令和の時代、この辺りももしかしたら崩れるのかもしれません。
総論は別に、各論としては、大に依存する発想には注意が必要と心得ないといけないと感じています。恐らく信頼する今まで大であった存在は見かけだけで空洞化が進んでいる可能性があります。大企業と思われていた企業の破綻とか、そういうことが簡単に起こる時代でしょう。
老後に依存できる存在が頼りないのは不安な限りですが、粉々の世界から始まる再統合、AIなんかもその分類でしょうし、NW もその分類でしょう。この辺りに期待ですね。
個が独特な価値を持ちNW化されていくこと、これが令和の歩き方なんだと思います。独特な価値を持たない従属的個は今まで以上に価値を持たない存在になるでしょう。むしろ危険な存在にすらなりえます。
個としての価値を持たない従属的な個は多くの場合、群れるし、全体主義的発想に陥りやすいです。それぞれにツーリングを楽しめば良いのに集団化して自らの自由を互いに拘束し始める暴走族的な話です。令和の危険はそこでしょう。
生きるのに個性と能力が必要な時代になりました、老骨に鞭を打って、やっていくしかないです。


