
諦めるの漢字、諦(たい) は、事実を意味する漢字です。
例えば、A君がお店に行ってハサミを買おうとしたら、陳列されていなくて諦めて帰ったとしたら、その店ではハサミを売っていないという事実がA君との関係性で決まります。同じ店にB君が行って、同じようにハサミを探したら陳列されていなかったので店員に確認したら倉庫に行って見つけてくれてハサミが買えた。その店はB君にとってハサミがあった店という事実が確定されるのです。双方事実で間違いはないのすが関係性の中でどこで諦めるかによって事実は異なるので、古来から日本人は諦めることが即ち事実という、縁という関係性の中で事実が決まる仏教的価値観の中で生きてきました。
量子力学が、素粒子の世界では、それがそこにあるのは確率でしかなくて、観察者が事象に影響してしまうので、観察者によって事実が異なるが、双方事実。というすごい発見をしてアインシュタイン以下みんなびっくりということがあって、今は受け入れられて、ミクロ、マクロで統一的物理理論の探究が進んでいるのですが、古くから日本人は縁を介して事実が相対的であることを了知して生きてきたわけで、凄いことだと思います。
事実を受け入れなければ、諦めなければ、関係性の中では事実では無い。大切な概念だと思います。思いは通じるということです。そこに思う、念という考え方があって、念こそが宇宙を構成している。
これもまた、宇宙は無から生まれた、波動、振動といったエネルギーこそが始まりという現在の宇宙理論に繋がるわけです。


