Ryoko社長は、横浜の馬車道近くにある美容室でないとダメ とのことで時々は横浜に来ます。農業してると休みを自分で決めないと仕事は果たしないのできがつけば消耗し切っているということも。いつ畑に行っても中山さんの赤い軽トラが畑にあって、でも今頃は、時々無くて、そうか今日は日曜日で家族で過ごしてるんだろうなと、曜日を確認できたりします。

前置きが長すぎですが、最初の写真は横浜橋商店街です。昔、小学生の頃、社会科の自由研究で、横浜橋商店街と伊勢佐木町商店街、それと、元町商店街の3つをお店の種類で比較してみたことがありました。

横浜橋商店街は食料品店の割合が多いと仮定していたのに、思いの外、衣料品店ファ多かったと記憶してます。

この商店街の裏はいわゆる赤線地帯で、道の真ん中に柳の木を植えて雰囲気を作っていました。今もその名残があります。落語家の歌丸師匠は赤線のお店の息子さんでした。

実は、伊勢佐木町商店街は、関内から、この赤線の女郎さんにプレゼントを買うために発展した商店街で、今思えば、宝飾店の割合が多かったように思います。

横浜橋商店街と伊勢佐木町商店街の間には新田の水抜きのための運河というか川があり、今は埋め立てられて市営地下鉄が走っています。

中学の頃、彼女の声が聞きたくて、いい、8時ぴったりに電話するから電話に出てね、と、10円玉をかき集めて伊勢佐木長者町駅の公衆電話まで行って電話したら、おかーさんが出て、あのー、そのー、⭕️⭕️さんいますか?としどろもどろ。懐かしい思い出です。

今思えば、横浜の最も横浜らしいところで高校生まで過ごしていました。

亡くなった兄が、クロスさんって覚えてる?わずかに記憶がある不動産屋さんでしょう?それは後の話で、元々は女性を世話する仕事をしてたんだよ。まじで!

私の家は玄関にチョイっと腰掛けるところがあって、いろんな人が来ました。今振り返って、中華料理屋さん、スナックのママさん、酒屋のご隠居さん、金庫屋さん、食器屋さん、いろんな話を聞かせてもらいました。かく言う私ンチはブラウス屋さん。クロスさんもその1人で、サラリーマンと、言う人は滅多にいませんでした。農家さんもいなかった。

多様な人と触れ合って、いろんな価値観の人と接点があった。横浜はそういう町で、そんな町で育ってしまったものだから、均質ののっぺりとした会社生活は厳しかった。常に、いわゆる、浮いちゃうんだよね。

この町を歩くと自分の成り立ちを実感しますね。

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