家庭菜園びっくり教室の前書きで、なるほどなと思うことがありました。筆者曰く、営業用農家には知識はあるがその分だけ知恵がない。知識が積み重なって結果誤った方向に行ってしまう。マーフィーの法則。一方、家庭菜園は、野菜の形にはこだわらない、量にもこだわらない。味、安全性、作る喜び、収穫する喜び、ここにこだわりがある。
一瞬何を言っているのかわかりませんでしたが、恐らくこういうことを言いたいのだと後の文書を読んでわかりました。農業で利益を上げるには、野菜の形の同一性と低コストでの大量生産等が求められる。そのために知識が必要だが、農薬に代わってのコンパニオンプランツ、混栽などの創意工夫、筆者の言う智恵は、収穫の煩わしさが増すだけで非効率で避けたいこととなる。現在の農業には智恵が無く、結果、あらぬ方向(不健康な農薬、肥料の使用)に進む。ここまで理解できて、私は大学の時のフィリピン、ネグロス島でのインターンゼミを思い出しました。まじめすぎる話にはなるけれども少しだけ。備忘のためにブログに残します。
フィリピンネグロス島には地平線にまでサトウキビ畑が広がっています。まさに大量生産を支えるモノカルチャー。効率性を極め、国際的な分業が進みます。そのプロセスでは、アフターハーベストを含む不健康な薬品や農薬が使われています。また、そこで働く人たちは、私兵に巡回監視されながらサトウキビ以外の作物を作ることを禁じられて働いています。だから、土地が肥えていても栄養失調となる人がいるのです。こういった仕組みで利益を得る農業メジャーやモノカルチャーの畑で働く現代版農奴の皆さんが、消費者の健康のためを思って知恵と工夫で作物を作るわけがありません。筆者が農業経験の中で記していることは国際経済の構造的な問題と源を同じくしていると感じました。
食べることにおいては、工場制手工業レベルに留めておかなければいけなかった。生産者の顔が見えない、どうやって作られているかわからない。それを口にするのは危険だと思います。

農業経営となると何となくびびりますが、利益をあまり気にせず、家庭菜園の延長で農業をとらえることができるのなら、自然体で臨めます。大きな気づきだと思いました。
売るために採るのでは疲れてしまいます。老後もこんな感じでやっていたら早死にしてしまいます。工夫して栽培して、採ってみたら売れそうだから売る。自給と作る楽しみと喜び、その共有。工藤夕貴の農園と同じ発想です。贅沢な話です。
食卓に上った野菜を前に、今年の白菜はどうかな。雨が多かったからなー。食べてみて、お、それなりにおいしいじゃない。まーまーだね。野菜栽培のプロセスを楽しんで、結果が良ければ、また喜ぶ。まさに家庭菜園です。こういう考え方で作られた野菜は形は整いませんが、安全な野菜です。家庭菜園で超過した分をおすそ分けするといった緩い市場は意外と大きいのではないかと勝手ながら想像するわけです。


